冬のいいところ

夜の光景で、街路樹と生垣に左右を覆われた歩道の写真。街灯が等間隔で光っている。少しだけ空が覗いている。大部分が紺色で、遠くの方が明るいピンク色になっている。

 最近肌が荒れている。特に口元。ぽつぽつと赤いニキビができていたりする。理由ははっきりしていて、私が寒さのせいで布団をかぶって寝ているからだ。

 鏡を見て「あれっ?」と思い、はたと納得しては冬の訪れを感じる。当然だけれど特に嬉しくはない。太陽の名残がある時間はまだいい。夜が深まるごとに寒くって寒くって、肌から肺から、染み入る痛さで体がこわばる。指先は何をするにもおぼつかない。床は体感として氷に近い。だから動くに動けない。無意識のうちに体をすくめているせいで、あっと思ったときには手遅れの肩こりになっている。ベッドに入ったらついつい掛け布団を口元まで引き上げてしまうのも、致し方のないことだと思いませんか。

 勢いあまって頭のてっぺんまで引き上げることもある。翌朝起きると嵐を潜り抜けてきたかのような髪形になっていて直すのに苦労するのだが、仕方ない。だって部屋は寒くて、布団の中はあったかいのだ。ちなみに洗面台も寒い。もう多少はねててもよいのでは? だって寒いし。

 古今東西、雑談の鉄板ネタとして「夏と冬、どっちが好き?」という問いかけがある。雑談がへたくそな私は夏になるたび、もしくは冬になるたびにこのネタを使うのだけど、返ってくる回答は記憶にある限り100%「冬」だ。どうして? と尋ねると、これまた必ずと言っていいほど同じ答えが返ってくる。「冬は着ればいいけど、夏は限界があるじゃない」。

 そうかな? 着るにも限界があると思うけどな……などと反論してしまうことからおわかりのように、私は即答で「夏!」である。夏のいいところを挙げましょうか。洗い物をするとき手が痛くない。お風呂場で凍えない。帰ってからコートを脱げないで一時間しゃがみこんだりしないで済む。夜中に起きてもトイレに行くとき躊躇う必要がない。喉が渇いたときにお湯を沸かす手間がいらない。まとめてしまえば、夏のいいところは「寒くない」なのだ。

 寒いというのを馬鹿にしてはいけない。寒さが引き連れてくるもの、それは悲しみだ。大げさでもなんでもなくって、寒いというだけでひとは悲しくなれる。こんなひどい話があるだろうか。そりゃ夏だって悲しいことがあれば悲しくなりますが、ただ「寒い」ということが悲しさの理由になり得るひとにとって、冬は大抵毎日が悲しい。繰り返すが、こんなひどい話があるだろうか。悲しい。寒い。キンキンに冷えた空気はなんとなく質量を感じて、指で叩いたらコツコツ、と音がしそう。それを静かに、じわーっと押し付けられているところを想像してほしい。助けは来ない。これは本当の話なんだけど、真面目に泣きそうになっている。「暖房をつけなよ」という冷静な声が飛んでくるのはわかっているのだが、泣きそうなのでそんなことを思いつける余裕はない。あらゆる意味で悲しい。

 大抵の人は「もっと着ればあったかいよ」と言ってくる。理屈の上ではそうだ。だがしかし、着れば着るほど動きづらいのは織り込み済みなんだろうか。しかも動いたら動いたで暑い。でも顔や手は寒い。交通機関を利用したり商業施設に入ったら最後、全身が暑い。夏の暑さとはまた違い、冬に感じる「暑い」はものすごく精神を疲れさせるのだ。脱いだら上着がかさばって邪魔になるし、場合によっては脱いでも暑い。誰だこんなに着込んだのは。私だ。機能性の肌着にあったかいセーターを着たのは私だ。ダウンコートにマフラーをもこもこ巻いたのも私だ。だって! 家を出るときは! 寒かったんだもの!! ちなみに人ごみは着ぶくれのせいでより圧迫感がある。たまらない。もういいからおうちに帰りたい……。外に出ると汗が一気に冷える。悲しい。冬は悲しい。

 そんな感じなので「断然夏でしょ」派なのだが、近年はそう言い切れなくなってきた。夏が暑すぎるのだ。幼い頃は真夏に押し入れに潜り込んでお昼寝をし、熱帯夜で誰も眠れなかったというキャンプでもあなたは一人だけすやすや寝てたね、と大人になった今でも言われる私だが、ことに今年の夏は酷いと感じる。家の中にいても熱中症ってなるんだなあ、ということを、実感として理解したのも今年のことだ。30℃超えたらすごいもんだ、という時代もあったように思うが、今は30℃を下回ったら涼しいまでになっている。異常だ。冬は相変わらず悲しいが、じゃあ夏がいいかと言えばそれも憚られるようになってしまった。ここまでくると、暑さに強いとかいう段階ではない。その根性論は人を殺す。さらには冬の悲しさまでもが「それほどでもないかも」という年すらあったりする。

 世界的にも異常気象が「珍しくない」ものになってしまっているが、テレビのニュースなんかでは「びっくりですねえ」「大変ですねえ」という一周回ってそれは毒になるのでは……なコメントに終始していてびっくりしてしまう。たぶん生きてる間にやばい事態に直面する私の目の前で「私が生きてる間は大丈夫」と安心してみせるひともいるし、いつまでも終わらない夏に「怖いねえ」「困ったねえ」と眉をひそめながら、寒くなり始めると数日前の「異常」のことをすっかり解決済みにぶち込んでしまうひともいる。私はそういうひとたちのことを軽蔑してしまうけれど、私自身こそがそのグループに含まれているのだろうなということも気づいている。他人事にできた瞬間から己の目が曇ること、少なくともそこには自覚的でいたい。

 暑いこと、寒いこと、夏と冬、それらを単純に個人の好みで盛り上がれるように、どうにか抵抗していく必要が、どうしたってあるのだ。世界中の気候の変動をどうにかするなんて、あまりに規模が大きすぎて途方に暮れたまま気づいたら春とか、自分だけ動いてみたって無意味では、とか確かにあるけれど。個人より企業が、企業より自治体が、自治体より国が、国よりも世界が動いた方がいいし、そうしないと「どうにもならない」規模の問題ではあるのかもしれない。ただ、個人が動くことで回り出す歯車というものもあるはずだ、と思っている。たくさんの小さな歯車。きいきい。

 冬のいいところは布団の中があったかくて幸せになれるところだ。あったかいお茶を飲んだときの胃のじんわり感もいい。お鍋のお豆腐を割って冷ましているときのわくわくした気持ちも忘れ難い。冬は寒くて悲しいけれど、冬にもいいところはあるのだ。それを消したいとは思わない。たとえ悲しさが消えたとしてもだ。

 冬が悲しいほどに寒くないと夏のいいところだって消えてしまう。「夏と冬どっちが好き?」は、「どっちがマシ?」なのだと思っている。その問いに「夏!」と即答できる年はまだ残されているだろうか。

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