※性暴力に関する内容です。
2023年9月7日、株式会社ジャニーズ事務所による記者会見が行われた。登壇したのは藤島ジュリー景子代表取締役(前社長)、東山紀之新社長、井ノ原快彦氏、木目田裕弁護士の4人。記者会見は4時間を超えた。
猛烈に虚しかった。
なんで頭を下げてるのがこの人たちなんだろう、という虚しさ。なんでこの人たちにしか頭を下げさせることができなかったんだろう、という虚しさ。なんでそういう状況に疑問が投げかけられないまま会見が進んでいくんだろう、という虚しさ。壇上にいるのは「未曽有の」と表現されるほどの性犯罪者であるジャニー喜多川氏でもなく、内情を詳しく知るはずの白波瀬傑元副社長もいない。ジャニー喜多川氏は死んでしまっており(つまり存命中にこの企業を糾弾しきれなかったわけであり)、白波瀬元副社長は「引退」したからいないのだという。なんだよ引退って。引退って。そして壇の下は「フラッシュを焚く側」になってしまっている。
虚しいし、悔しいものだと感じているひとがどれほどあの場にいたんだろうと思う。画面のこちら側にも。何よりもまずこんな会見しか開けなかったことを全員が恥じるべきじゃないのか。
4人はどの感情に基づいて何に対して頭を下げているのか、記者たちはどの立場で誰に何を糾弾するつもりなのか。もちろん「新体制」としてスタートする組織に対してであればこれでいいんでしょう。過去の犯罪に対して、責任を取るべき人が言葉を発するなり罪に問われるなりして反省の土台ができているなら。でも違くないですか。「知らなかった」「知りようがなかった」「信じていた」「今は許さない」。事実がどこにあるかは知りません。でも、壇上に立っている人たちは確実に首謀者ではなく、そして積極的な共謀者でもないのなら、彼らがどれだけ頭を下げても謝罪の言葉を引き出させても、それで何になるだろうと思います。壇上で話したひとたちは語るべきだし、批判を受けるべき、というのはそれはそれとしてある。責任ある立場についたのだから。
「姪としては責任を取りたいと思います」。責任を取る理由を、親族であるから、としか言えない人が会見で頭を下げている。「なんてことをしてくれたんだ、と思います」という言葉があった。本音かと思うけれど、「なんてことをしてくれたんだ」までしか事件に関与できない人たちがその立ち位置で下げる頭の意味ってなんなのだろう。「いちばんわるい人」でないひとが、「わたしがわるいことをしたわけではないけれど、謝るたちばになったからせいいをもって謝っています」の構図。中心がない。みんなちょっとずつ「当事者ではない」の顔ができるようになっている。
そしてメディアは、ちゃんと「悪」として認定された相手に対して安心して正義を振るっているように見えた。各メディアの質問にはよく突っ込んでくれた、というものも多くあったし、「新体制」に対しては厳しい立場を貫けていたように思う。必要だとも思う。ただ、しれっとした顔で「正義」の側、ジャニーズ事務所から圧力を受けていたという「被害者」の側に行儀よく収まっているようで、それが心底かっこ悪かった。「圧力をなくすと明言してくれ」という際に、「私たちも圧力に屈しないという自戒を抱く」とは誰も言わなかった。ほんの少し前まで、テレビには当たり前にジャニーズ事務所所属のアイドルが出演していて、メディアはそれを主力商品として扱っていた。そのことを「圧力を受けていたんだ、わたしはわるくない」というのは簡単だけれど、そこに責任の意識はない。その先にもない。
そして私、すなわち消費者も、会見を見て彼らの物言いを「評価」してみせることで簡単に自分を社会問題から切り離した存在にしてみせていると恥ずかしくなる。悪いのは性暴力を行ったジャニー喜多川で、それを隠蔽した組織体制で、メディアも同罪で、「新体制」も反省が見られなくて最悪だ、と厳しく批判する。被害者がかわいそうだ、と言う。そういうのを、テレビやパソコン、スマホの画面のあっちの問題として、自分には関与不可能な事件として扱うのは、娯楽の消費と何が違うんだろう。リアルで話題にして「いやーひどいね」と言って明日には忘れるし、笑いながら会見のことを話したりする。それを耳にしながら激しく怒ってみせることもできない自分がいる。ジャニーズ事務所だけのことではないよ。本当にいろんなことを私は消費する。無自覚に。消費することで責任を果たしていると安心する節すらある。言及することで免罪されている気分になっている。無関心よりもいいのかな。でも忘れてしまうなら無関心と同じようなものの気もする。
そのことをせめて自覚していたい。自分が正義を語るとき、それが消費でないのかを自問できるような、たとえ消費としてでしか問題にできないのなら、そのことを忘れないでいるような。
そのことを踏まえた上で、会見について。「新体制」について。もうやめてくれって感じ。性暴力の犯人の名前がついた事務所名を、「ブランド力」として重んじているな、と思った。被害者のフラッシュバックを考えただけでも何をもってしても秒で「廃止しましょう」とならなきゃ駄目だろと思うんだけど、「それももちろん考えました」の上で起用し続ける判断ができちゃうのはしんどすぎる。それが、新幹部がみんな被害の重さをわかっていると思い込んでいるだけでわかっていないのか、長年組織にいた人たちだからこそ「おかしい」ことに気づけないようになっているのか、そこはもうわかんないし「こうだ」とか言えるもんでもないのかもだけど、そういう前社長が取締役になって「被害者のケア窓口」になるとか、そういう新社長が自分は「権力」の怖さをコントロールできると思ってるのとか、もうやめてほしい。東山社長は過去のハラスメントについて「覚えていない」「あったのかもしれないしなかったのかもしれない」「そういう時代だった」と発言してるけど、自分のことも第三者組織にしっかりと調査してもらいたい、とかいうことが言えなくて「新体制」も何もないよって思う。走り出す覚悟ばっかり語らないでよ。どうして当たり前に再び走り出せると信じているんだろう。頑張り屋の「ジャニーズ」だから?
「みんな」を繰り返す「新体制」は、結局「信じてついてきてくれること」をファンにも踏み絵のようにして圧をかけることになっていると思う。推しているなら、信じているなら、どうかこれからも応援してほしいって。そんなん言われたファンは「信じる」ことが愛の証明になっちゃう。実際ネットでは「ジャニーズ」を擁護する「ファン」がたくさんいるらしい(私は見ていない)。今まで「ジャニーズファン」を当然に誇っていたであろうファンの中には、コミュニティででも自分の考えの中ででも、苦しんでいるひともいるだろうなって思う。「信じてほしい」なんて言われてしまったばっかりに。圧力じゃんかこんなの。「新体制」の側からしたら、頑張っている罪のないアイドルたちを思えばこそ、なのかもだけど。それは人質だよ。「ジャニーズ」を根底から解体してよ。そこを惜しんでいたら、結局被害者は二の次だっていっているようなものだ。
「ジャニーズ」でなければくすんでしまうのか。「ジャニーズ」の名前に関心を寄せていたのか。私はジャニーズアイドルに思い入れが全くないけれど、ないから言えるのかもしれないけれど、グループを応援するのならば「どうかその事務所からは離れてほしい」と願ってほしい。大人なら特に。どっぷり漬かっていた人たちが幹部で、「みんなで」を繰り返して「対話」を繰り返して、「ジャニーズ」への愛があんなににじみ出ていて、「新体制」も何もあったものではないはずなんだ。その場所に留まったまま「新しく」スタートがんばって! という声が、内部の子どもたちやアイドルに、どうか届かないでほしいと願う。それでかれらが傷つくのかはわからない。むしろ奮起するのかもしれない。それこそが呪いであり搾取だ。こんなグロい話はない。
話すべき人物を表に出し、「信じないでほしい」「疑ってほしい」「でないと所属アイドルをまた同じ目に合わせてしまうかもしれない」こういう言葉が企業から出てようやくの再出発になるのではないか。そもそも、新体制も再出発もするべきではないと強く思うけれど。あとみんな年齢低すぎでは。
だから、ジャニーズ事務所との関係を絶つ企業が続々と出てきたのにはちょっとほっとしてる。あの会見を「区切り」として、浄化された「商材」を買う流れだってあったと思う。もちろん全部が倫理的判断を即座に下せたかといったらそうじゃなくて、会見の世間の評価がよろしくなくて慌てて舵を切ったんだろうなっていうところもある。とにかく企業は判断をしたので、消費者は消費者として、企業へメールでも出そうかと思う。